大切なものと偶然性

夢とか、こだわりとか、愛する人とか、多くの人は大切なものを持っている。無根拠な、理由なく固執してしまうもの。それがなくては生きる意味がなくなってしまうようなもの。

大切なものがなくては人は生きてはいけないとは思うが、その大切なものが必然的なものであるわけではない。もちろん必然性を仮構することはできる。親や恋人などと前世からの因縁で結ばれていた、というような。そうした物語に意味がないというわけではない。しかしそれは物語である以上任意性を含んでおり、どのような物語を紡ぐかもまた必然的ではない。

例えば僕にとっては興味のあることを勉強することはかなり大切なことだが、特にそのことに必然性があるとは思っていない(昔は多分思っていた)。知的好奇心なんてものが大層なものだとも思っていない。単に遺伝子と環境の偏りによってこういうことに快楽を覚える神経が強化されただけのことだと思っている。僕がこのような人間であることは特に必然的なことではなく、生まれと過去の遍歴に依存しており、その意味で偶然によることだ(ところで我々は何を必然と呼び何を偶然と呼ぶのだろうか。生まれる前からの因縁なんてものがあったとすればそれは必然性を生むのか? 我々は何が可変的で何が不変だとみなすのか?)。

しかしその偶然性こそがある意味で絶対的であるとは言えるだろう。それ以上根拠を辿れず、逆にあらゆるものの根拠を辿っていけばその偶然性に行き着くという意味で。偶然性は無基底としての基底だ。